昭和四十六年十一月四日 朝の御理解
御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有り難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声を出したり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め」
昨日は福岡教会の八十年の記念祭、それに初代、三代の先生方の六十年の式年、それから五年の式年祭が、盛大なお祭りが仕えられました。本当に私も久しぶりにお参りをさせて頂いて、感慨無量でございましたが。先生方の控えに通されて、お茶を頂いて、教師席の方へどうぞと御案内を頂きました。
本当に有難いと思うたことは、もう私福岡におかげを頂いて、朝の御祈念、夜の御祈念、お参りさせて頂いて。ここは大坪さんの席だと言われるくらいに、御神前の真前のところに、御大祭というと絶対私はあそこです。福岡教会の時に、これはまあ、三井教会なら、三井教会の場合でも同じですよね。いわゆる、あそこはあそこは大坪さんの席ですと言われるくらいに、そこに御案内頂いたことでした。
あれだけ、もうそれこそ九州中の先生方が集まっておると言われるような、偉い先生方が沢山居られるのに、私が中心ですぐ横が姪の浜の先生でした。本当にそれこそ感慨無量で、いわゆる私の修行中のこと等思い出させて頂いて、ここであんなことを願った、あんなことを頂いた。ここで本当にあの大きな御広前が割れるようなおいさみを頂いた時には、ちょうどあそこに座っておって、もう御結界にも、御広前にも、誰もお参りがなかった。あそこで御祈念をしよったらあんなこともあったと思ってね。まあいろいろ思わせて頂いて、有難くお祭りを頂かせてもらった。
沢山な参拝者、賑やかな御大祭でございましたが、御大祭でも、例えば今日の御理解からいうと、「有難そうに心経や大祓をあげても、心に真がなければ、神に嘘を言うようなものじゃ」と。私はあの御大祭が神様に嘘を言うような御大祭だとは思いません。もう福岡教会のあれが、あのまま御比礼だと思いますね。大したことです。 けれども中に、祝電の披露がございました時にね、皆やはり偉い方達の、いわゆる信心をしない方達の披露がございましたですね。どこの代議士さんとか、何とかと、大変偉い方達の。ですからこれは仕方がありませんけど、いわゆるお座なりの祝辞だけです。いわゆる御大祭の在り方を、例えてここの御大祭と併せて言うなら、もうのっけから「親先生、おめでとうございます」「親先生有難うございます」が一番口です。これはもうここの御大祭の時には、あっちから、こっちから祝電が沢山出ますが、もうそのことに尽きとります、みんなの祝電が。
例えば伊万里の竹内先生が今度の御大祭の時には、名古屋に出張でしたけれども、もう名古屋で合楽の御広前で御大祭を拝んでおる気持ちを電文の中に、あれの読み上げがございました時にそれを感じました。名古屋からこのお祭りを遥拝しておられるなということ。ただ綺羅星のような偉い先生方とか、綺羅星のような有名知人の方達と一堂に集まるとかいったとうなことは、信心には全部関係のないことですね。それはその雰囲気を華やかにしたり、賑やかにすることはするけれども、せっかく有難いなあと思うておるものがね、殺かれてしまいますね、拝んでおっても。まあお祭りそのものは有難かったけれども、例えば祝電に見るそれは、ちょうど神に嘘をを言うようなものであったということを実感しました。
これはまあ他所事じゃありません。私共の場合でもそうです。もう賑やかにさえ出来ればよいといったようなことではいけない。どこまでもやはり、真が、真心がいっぱい溢れとらにゃいけません。言わば、一言聞いただけでも、例えば祝電を聞かせて頂いただけでも、いっぱいの参拝者が感動するものでなければいけません。私は当日思いました。人が助かるということの話は大したことだと思いますね。そういう意味で私は本当に、合楽で本当に人の助かる話を日々こうやって頂いておるということをね、有難いと思います。
竹内先生のあの時の祝電を頂きましてもそうでした。とにかく合楽で、有難い、有難いと言うておる。その有難いものが世界の隅々にまで行き渡って行くような、それを祈りますと言う電文でしたね。そういう例えば生き生きとした、世界の隅々まで拡がって行くようなもの。「親先生、有難うございます」「親先生、有難うございます」だけで、もうそれで全部有難いものにしてしまうような感じですね。
信心させて頂く者は、本当に、神に嘘を言うような、私は生活であるとか、信心である。本当に心掛けさせて頂かねばなりません。いかにも、成程羽織袴付けておりますけれど、その羽織袴で神様に嘘を言うような形になっておることはないだろうか。心に袴が付けられておるだろうか。いかにも有難そうに御祈念をしておっても、本当にその内容がです、やはり神様に嘘を言うようなも同然というようなものではないだろうかということを思うて、神様へ向かわねばいけません。
「神参りをするに雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行ぞ」これもやはりよく心掛けておりませんと、今日はもう雨が降るから御無礼しよう、何気なしにそうなりますけど。私は身に徳を受ける程しの信心というのは、そこのところが却って、丁寧に大事にされると。そういうところは、合楽の人達は皆わかっておられるし、皆それを実行しとられるように思います。
これは椛目の時代でしたけれども、月の内何回かしか参って来ん人がもう雨風の日に参って来る。もう下はこげん濡れてから、御広前に座ると濡れるごとある。「今日のごとある日にようお参りして来たの」と言うたら、「親先生がいつか、雨風と言うてはならん、雨風の日のごたる時に参って来ると徳を受けると言いなさったけん参った」と。大笑いしたことがあるのですけど。常日頃参って来んで、雨風の日にだけ参って来て、徳を受けようと思うとる人がある。決してそんなことじゃない。
常日頃は勿論出来ておってです、例えば雨風のような時でも、日頃は出来ておるから、雨風の時は御無礼するでなくて、日頃出来ておって、なおかつ雨風の日も大事にすると。これは天気のことだけじゃありません。日頃は有難い、有難い。平穏無事の時は、有難い、「有難いおかげを頂いて」ということを言いよるけれども、ちょっと風向きが悪くなったり致しますと、「ひどい風だ、ひどい雨だ」と。その雨風に不足を言うようになったんでは、日頃いかに有難そうに言うておっても、その有難いものが消えて無くなってしまうわけです。
日頃有難いと言っている以上にです、日頃の信心のおかげでこういう問題でも、こういう事柄でも、このような有難い心で受けることが出来るということが徳を受けることなんです。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行である。そこでです、「その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」という辛抱もさることながら、その辛抱せねばおられない程しのこと。
なら、雨やら、風やらといったような中にある時です、私共がそれを有難いという心で受けられるような信心を頂いたら、いよいよお徳が受けられるでしょうね。第三者から見たら、信心しよんなさって、どうしてあげなことになるじゃろうかと、外からは思われる、言われる場合にです、辛抱、信心さして頂いとる者はそのことが有難いと受けて行けれるような信心です。
久留米の大場さんが、熱心に毎日家族を挙げての御信心が、最近出来ておられます。奥さんの信心の心境が進んで行くこともさることながら、ご主人の信心も何とも言えん味わいのものに育って行っておる。特に奥さんの場合なんかね、非常にお徳に触れて行かれる。霊徳に触れて行かれる。本当にびっくりするように、いつもお話するんですけれども、神様が信心させて下さる。こういう素晴らしいことを頂いて、有難いですねと言うて話したことですけれども。
昨日お届けされますのに、『牛に引かれて善光寺参り』を頂いたということはです、お参りしようとも思わんのに、お参りするという意味なんですよね、大体。おばあさんが、それこそ仏様に手を合わせたことのないような、強欲なおばあさんが、川で洗濯をしよった。そこに走って来た、駆けて来た牛がその角で洗濯ものを引っかけて走った。それでおばあさんは、ちょいと待ってくれというわけで、洗濯物を追いかけて、いわゆる牛を追いかけて、洗濯物を取り戻そうと思って行ったところが、その牛が善光寺さんの山門に入っていった。それで初めてくぐる山門。そしたところが沢山の人が集まって、ちょうど御説教でしょうね。御説教があっておる時に、そこに牛が入って行ったので、その洗濯物取るのと同時に、聞くともなく聞いたお説教がです、大変に有難かったというので、熱心な信者になったというお話なんですね。それでとにかく自分はその気はなくともです、行かなければならないといった時にはね、とにかく牛に引かれて善光寺参りというように申しますね。
ところが大場さんの場合は、仕様ことなしに合楽に参って来ておるというのじゃない。もうとにかく信心は永くしとられたけれども、毎日、毎日頂く御理解の有難さに、もう只々有難い、勿体ないで参って来ておられるわけです。しかもその御理解がです、子供さんが、とても良い子供さんが何人もおられますが。お母さんとお父さんが余り熱心にお参りするものですから、子供達もついて来る。日曜日には必ず皆がついてくる。お月次祭には必ず皆が参って来ておる。
そして、その合楽の先生が言われる話がです、「お母さん、あんたわかったの、あれはこういう意味で言いよんなさるとよ」と言うて、学校で仲々頭が良いお子さんらしいです。お父さんより、お母さんより理解があるといったように、一家を挙げて信心が進められていっておる。それですから、もういよいよ有難い。有り難いですね、子供達がこれほど熱心に親の信心について来るなら、もう親はどげん難儀しても、苦労してもよいですね。有難いこと、子供達が育って行きよることが有難い、信心に。
だからそういうものを子供達に与えたのは、やはり大場さん達御夫婦の信心です。御主人はさ程でもなかったのですけれども、ここにお参りして来るようになり、御教えを頂くようになったら、一段と信心のある眼がひらけて来たというわけである。
もう久留米の佐田さん、大場さんの参って見える時には、もうとにかく、いそいそとですね。私はここから御祈念中に、ちょっとは遅れた時なんか、「しもうた」という顔して、駆け足のような、まあ駆け足で見えるわけじゃないですけれども、そんな気分がするのです。ここの御広前に入って見える雰囲気が。それはどういうことでしょうか。もう御祈念が始まっとるばいのと言うて悠々として入って来る人がありますよ。お賽銭を投げ入れて、それはもう本当にもうここから声かけるような感じがすることがある。だから、その同じお参りさせて頂くでも。
先日、日田の、若先生の部屋を建てました大工さんがお参りして来ます。誰か知らんけれども、「合楽の金光様は、朝参りすると三べん参ったごとある」と誰か言ったげな。「それで朝参りして来ました」と。それで朝参りして言うのですよ。「しかしそれは本当なことですよ」と私が申しました。これはひょっとすると三べん以上かも知れん。同じお日参りするというてもです、例えば朝の御祈念に合わせるということは、確かにこれは三べん参るがと以上のものが感じます。
例えばね、昼の一時間とね、朝の一時間というたら、もう本当に三時間かとも、四時間かとも違うです。だからよし例えば、昼寝してでも、朝早起きしてお参りしてくるとは大変素晴らしいことだ。それはよかことをあなたは聞きなさったですね。合楽の金光様に朝参りすることは、日に三べん参ったがとの御理解があるげなと言うて、「ごっかぶり殺すと高良山に三べん参ったがとある」と言いますね、この辺で。
やはり例えば一ぺんお参りして、三べんお参りしたがとある、よいこととして。例えば、高良山に三度参ったごとしの功徳を受けられるようなお参りの仕方、御用の頂き方でなからなければいけんのです。それで、ここで私が今言うております、神に嘘を言うような信心では駄目だと言うこと。どんなに賑々しう御大祭が出来たとてです、神に嘘を言うようなお祭りであったらつまりませんもんね。中に、それこそ有難いものがいっぱいなからなければ。形式じゃいかん、形じゃいかん。
そこでです、せっかくお参り、いや朝参りさせて頂いておるのであるから、今、佐田さんや、大場さんの例をとりましたが、本当にそれは人間ですから、たまに遅れることもありますよね。けどそういう時には、それこそ何かこう、遅うなしたという、駆け足で来るというそういう気持ちなんです。もう合楽の教会がその辺に近づいて来たら、自然足が早うなるというくらいな、その私が言いたいのはその内容なんです。
やっとかっと朝参りして来てある人、それこそ生き生きとして、いそいそとして、お参りをして来ておる人。それはちょうど銀行に金借りに行くのと、金を預けに行く程違いますよ、同じ銀行に行くでも。だから、そのいそいそとおかげの頂けるような、ぱちっと御祈念のことを思うたら目が覚める程しの、教会が近づいたら小走りせにゃおられない程しの内容を頂きなさいというわけなのです。それが『牛に引かれて善光寺詣り』というようなことでは本当なことではないですけれども。
大場さんが頂いておられる、『牛に引かれて善光寺詣り』というのは、そういう意味ではないです。これは御理解ですよと言って話した。牛とは、ここでは家のめぐり言われます。蛇のお知らせ頂くと、身のめぐりと言う。牛のお知らせ頂くと、家のめぐりと言う。家には、家にちゃんとめぐりの深い家、そんな家がありますね。
私は大場さんが初めて、奥さんのことで参られた時に、この人はめぐりの深い人だと思いましたね。成程あなたが合楽に参って来なければならない、一家中がこうしてお参りせねばならないわけがありますね。大場さん、あなたのところの家のめぐりなんです。その家のめぐりがです、家のめぐりが合楽に向かわせておる。
私の方も大変にめぐりの深い家でしたが、椛目の時代に一間のあのガラス戸を取ってしもうて、桂先生が、それこそ象のような大きな牛をです、もうちっとはこれに引っかかろうごとあるとば、こう引っ張って家から出されるところを、私の母が頂いた。それはもう二十年も前の話。大坪の家には、象のように大きな牛のめぐり、家のめぐりがあったというわけですよ。桂先生がそれを一生懸命、もうもう楽に出られんとです。そげな大きなめぐりを引っ張り出して下さった。さあ後は有難い、有難い。人は助かる、私共はこのようなおかげを頂くということになった。
お互いがね、信心しておかげを受けるということは、只ね、何とかに手をかぶせるようなおかげではいかんとです。その場、その場のおかげではいかんとです。もう心から、根からおかげを頂かせて貰わねば本当のおかげにはならんとです。いわゆる「井戸は清水になるまで」なんです。それが段々信心させて頂きよると、井戸さらえをしておると、最後には濁った水が出て来たり、又は汚いものが上がって来るようにです、真から、根からの井戸さらえが出来ることから、後は滾々と尽きぬ程しのお恵みに接することが出来るわけです。
ですから、めぐりが深いことはやはりそのまま難儀ですけど、そのことは困ったことなんですけれども、その困ったことのおかげで信心が出来る。困ったことのかげで、めぐりが大きいから大きい程おかげが大きい。お徳が受けられる程になる。ですから、そのめぐりが深いということですの自覚が出来て、そのめぐりに、信心が、いわゆるめぐりと仲良うする信心とは、「めぐりさんあんたのおかげで信心が出来ます」ということになるのです。
めぐりが無ければわざわざ沢山の教会を踏み越えるようにして参って来んでもよか。私の方も大変めぐりが深い、それこそ象のような牛を頂いただけでも、大坪の家にどれだけめぐりの深かったかということがわかりますが。大場さん、あなたのところもそういうめぐりがあるのですから、ですからめぐりを大事にし、そのめぐりを有難く、「めぐりのおかげで信心が出来ます」という信心になるから、あのようにいそいそとしたものが態度の中にも出て来るのだというわけなのです。
こうなって来るとどうでしょう、雨が降るから、風が吹くからえらい、大儀と思わんで済むどころか、今こそめぐりのお取り払いを頂いておる時、いやこのめぐりのおかげでこういう有難い信心が出来るんだと御礼を。成程叩かれれば痛い、苦しいことがあればやっぱり苦しいことは苦しいけれど、「そのおかげで信心が出来ます」ということになって参ります時に、その辛抱が有難い辛抱になって来る。
雨が降る時だけお参りすりゃ、風が吹く時だけお参りすりゃ徳が受けられるというのじゃない。常日頃に信心の稽古をしっかりさせて頂いて、よし今、めぐりが出て来て、今雨じゃろうか、風じゃろうかという時です。その雨風を辛抱勿論せんなりませんけれども、その辛抱も今こそめぐりのお取り払いを頂いとる時と、本当なことが本当なこととわからせて頂いとるところから、それこそ血の涙の出るように苦しいことであっても、それは苦しいことには違いはないけれども、有難涙にむせびながら信心の稽古が出来るようになるのです。
成程牛に引かれて善光寺詣り。そのめぐりのお導きよって合楽までもお参り出来るということになる。そこにはです、とても辛抱出来んと、普通なら言うところでしょうけれども、その辛抱がまた楽しゅうなる。その辛抱が有難うなる。そういう御理解ですよと言うて大場さんと二人で、私共のめぐりの深い話やら、大場さんところのめぐりの深い話やらをさして頂いたことでございますけど。成程そのいそいそとしたお参りの仕方から感じてです、その辺が段々出来て行きよんなさるとだなあと思うのです。
神様に嘘を言うようなお参り、朝参りはしよるけれども只朝参りをしよると、生き生きとしたものがなければ。もう御祈念が始まっとろうが、もう平気な気持ちでお参りするような時にはです、もう何とはなしに神様に嘘を言うような朝参りになっておると思うて間違いないです。朝参りすれば三べん参ったがとあるけんで、てんで参りよるとじゃつまらん。そうしなければおられない心が三べん参ったかたじゃない、五へん参ったかたじゃない程しのお徳にもなって来るのです。そういう、いそいそとした、生き生きとした信心。そういう信心をさして頂きたい。
[照れば青葉の輝きて 降れば青葉のいそいそと おどる心を抱きしめて 嬉し涙にくれておる]というのがそのことです。信心しよるとに、どうしてこげん照るじゃろうか。信心しよるとに、どうしてこげん降るじゃろうか。どうしてこげんしるしい思いをせんならんじゃろうかと言うのじゃないわけです。照れば照るでかえって輝きを増す。降れば降るでかえって、いそいそとしたものが生まれて来る。それこそおどる心を抱きしめて、それこそ駆け足した心がその心なんです。それこそ血の涙の出るようなことであっても、信心のない人、薄い人であったらそうであろうけれども。信心のある者は、降っても照っても有難涙にくれているような信心を身につけたいですね。どうぞ。